メッセージ

2007年5月13日(日)
礼拝メッセージ 「主のもの」 エゼキエル書34:7〜16

私たちはイエス様を心にお迎えし、信じるまでは世に捕らわれていたものです。信じてからは、私たちは世の支配下ではなく、神様の中に入れられているものです。パラダイムシフトが起きたのです。つまり土俵が変わったのです。全く同じでいながら、全く違うものになったのです。今までは同じ土俵で戦ったり、論じたり、時には力を合わせてやってきましたが、戦おうにも戦えないのです。
そのようなサイクルでは私たちは生きていかれなくなったのです。土俵が違うのです。違うけれど、肉体は同じところで生活しますから、そういう意味で霊的戦いがあります。
イスラエルの民はかつて捕囚の民として捕らえられていました。それは彼らの罪の為ですが、神様は彼らを愛し、あわれみ、ペルシャの王クロスを用い、イスラエルの民を解放させました。聖書を通して一貫する神様のご意志、御心がここにあるのです。罪の奴隷からの解放です。そしてご自分の所有の民として迎えることです。神様は旧約も新約も同じです。同じお心で私たち人間を招いています。神様はどうにかして私たちを解放し、ご自身の元へ立ち返らせたいのです。その究極の手段が、御自身のひとり子イエスキリストを世に遣わし、十字架によって全ての罪を背負わせ、私たちの代わりに死なせたことです。

神様はそのようにして私たちを捕らえ、御自身の恵みの中にいれて下さったのです。私たちは自分を見るとき、それほど神様に愛されるに価するものかどうか疑います。こんな人間なのに、と。しかし神様は私たちの何を見ておられるのでしょうか。主よ、あなたにすがります、あなただけです、私を守って下さいと自分の力、強さ、経験に頼らず、砕かれて、懇願し、拠り頼む心を見るのです。それは人の目には弱く愚かに写るかもしれません。生きてきた経験、どんな境遇にも負けずに強く生きてきた姿、切磋琢磨してきた姿の方が美しいです。しかし神様が見るのは、そこではないのです。自分は十字架によって赦され、神様の子とされた、あなただけです、私の幸いは、あなた御自身です、と告白する信仰を見られるのです。ダビデは詩篇16篇で何を告白したでしょうか。私が守られたこと祝されたこと、それが私の幸いとは言わず、あなたこそ、私の主、私の幸いはあなたですと告白したのです。

私たちは世の基準で主を知ることはできません。神様の恵みによって、知ることができるのです。世のことは世の知恵によって知ることができます。しかし神様のことは神様の霊によって知ることができるのです。もう私たちは世の牧者の手から解放され、二度とそれに養われることはないのです。神御自身が、私たちを養い、育てて下さるのです。それが神に捕らえられたものの生きる土俵です。これこそが私たちが与えられた最高の相続地、祝福の地です。

2007年5月20日(日)
礼拝メッセージ 「神の知恵」 第一コリント1:22〜25

ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。第一コリント1:22〜25

キリストの姿をこの世の知者が見るなら、愚かに見えます。人の心を惹きつけるこの世の知恵は計り知れません。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追及します。と記します。しかし、イエスは答えて言われた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。」 マタイ12:39〜40

この世の方法に倣って、策略を練り、伝道方法を研究し、雄弁な伝道者を立てます。しかし神様の方法は、全てただ誠実であり、沈黙であり、信じることです。誰もがこの姿が愚かだと言います。ですから神の救いの唯一の道である十字架の教えは、世の人に愚かの極めとされるのです。神の独り子が十字架に上げられ、罪人の救いの道を開かれた。誰がこんな愚かな教えを信じていくのか。神ご自身がうたれ、ののしられ、唾をかけられ、恥だけをさらす姿で十字架にかかるなど、いったい何のためにそんな出来事を、いったい誰がそんな単純で愚かな出来事を神の教えと信じるのでしょうか。人の求めには十字架の言葉は何一つ答えることはないのです。

自分の弱さ、愚かさに向き合い、その縄目に縛られている者へ与えられた救いの道だからです。しるし、知恵それは人の目に認められるものです。中々賢い人だと認められたいものです。人が満足するものです。しかし神は、愚かな十字架によって、その弱さによって、神の力を顕されました。
神からの一方的な事実の訪れです。神は独り子を賜れたのです。理解できない全人類にこの方を送られたのです。私たちの理解ではなく。承認です。説明してもわからないことです。この方の十字架の赦しに出会った者の証人としての言葉によるしかないのです。

神が人間として生まれた。十字架につけられ死ぬ為にこられた。それはあなたが、自分の罪に気づき、その許しを受ける為に起きた出来事。彼は死に勝利して甦られた。それは信じるものが永遠の命を得るためのものだった。今も生きて働かれるこの方は、滅び行くことを知らないで、自分の人生を辿っている一人の魂を求める為に。しるしによらず、知恵によらず、この十字架の言葉の愚かさによって又つまずきとなるべきこの出来事によって知らせておられるのです。

神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い キリストの十字架は、愚かに見えますが、この世のもっとも優れた知恵によっても知ることができないほど知恵に富んでいます。また、キリストの十字架は弱々しく見えますが、全世界を支配する力よりも力強いのです。ですから、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いのです。誰の保証も証明も要らない。この方がご自身でご自身をしるしとされました。イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。ヨハネ14:6

2007年5月27日(日)
「真理の御霊」 使徒の働き19:1〜10

真理の御霊

ポロがコリントにいた間に、パウロは奥地を通ってエペソに来た。そして幾人かの弟子に出会って、「信じたとき、聖霊を受けましたか。」と尋ねると、彼らは、「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした。」と答えた。「では、どんなバプテスマを受けたのですか。」と言うと、「ヨハネのバプテスマです。」と答えた。そこで、パウロは、「ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです。」と言った。これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。

パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。その人々は、みなで十二人ほどであった。それから、パウロは会堂にはいって、三か月の間大胆に語り、神の国について論じて、彼らを説得しようと努めた。しかし、ある者たちが心をかたくなにして聞き入れず、会衆の前で、この道をののしったので、パウロは彼らから身を引き、弟子たちをも退かせて、毎日ツラノの講堂で論じた。これが二年の間続いたので、アジヤに住む者はみな、ユダヤ人もギリシヤ人も主のことばを聞いた。

                                       使途の働き19:1〜10


ペンテコステは、クリスマス、イースターと同じように重要で、大きな喜びの訪れです。これはギリシャ語で「50番目」という意味の言葉です。元々、ユダヤ教に過越の祭から50日目に「7週の祭」と呼ぶ、小麦の収穫を祝う祭がありました。そして、紀元70年以後、この日を律法授与の日として大切にしています。その「7週の祭」をギリシャ語に翻訳したのが「ペンテコステ」、つまり7週(=49日)を経過して50日目、という言葉なのです。新共同訳聖書では、「五旬祭」と訳されています(使徒言行録2章1節)。旬は10日という意味ですから五旬は50日です。 
この五旬祭、ペンテコステの日に、聖霊(神の御霊、真理の霊とも言われる)が、天から降りました。当時、主イエスの12人の弟子を初め、120名ほどの者が一緒に集まって、主イエスが約束された聖霊が降るのを、熱心に祈りながら待っていたのです。彼らは約束の聖霊に満たされ、神の力を受けて、いっせいに様々な国の言葉で神の福音を語りだしました。その光景に驚いて集まってきた人々に、ペトロが聖書から主イエスについて説き明かしたところ、3000人もの人々がそれを受け入れ、主イエスを信じて洗礼(バプテスマ)を受けました。この3000人の人々は、御言葉の学びと、礼拝をささげること、祈ること、信徒相互の交わりを熱心に行い、そうして史上最初の教会をエルサレムに形成したのです。教会は、その後も聖霊に力を頂いてエルサレムを初めイスラエル全土、そして世界中に福音宣教を展開してきました。極東の日本にも500年前に宣教師が主イエスの福音を伝えました。我が国からも宣教師が多くの国々に派遣されています。私たちの属する日本バプテスト連盟は、第一号としてブラジルに宣教師を送り、次いでインドネシア、タイ、シンガポールに送り出しています。

このように、キリスト教会にとってペンテコステは、聖霊がこの世に降った記念日(聖霊降臨日という)であり、また、教会の誕生日(エルサレム教会創立記念日)になりました。
 ペンテコステは、過越の祭から50日目に行われていましたが、キリスト教ではイースターから50日目に行います。イースターが移動祝祭日(祝う日が変わる)ですから、当然、ペンテコステも移動します。本来ならばイースター、ペンテコステの方が重要な祝祭なのですが、祝いの日が変動するということで、クリスマスのように世界中で祝われる祭にはなりきれないのだろうと思います。(キリスト教豆知識から)  
私たちの喜びはいったいなんでしょうか。自分の計画が完成にへと向かう時、喜びの絶頂が感じられるのでしょうか。主イエスは十字架に向かわれるとき、弟子たちに約束の聖霊が、父のもとからあなた方の所にこられることを話されました。それは主イエスの喜びが彼らのうちにあり、彼らの喜びが満たされるためであることを語られています。霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。使徒1:8 このお言葉をもって主のご計画を示されました。聖霊と共に世界へ遣わされるためでした。
 あなたは聖霊に満たされましたか。絶えずこの方と共にいますか。

五旬節に日、彼らに聖霊が臨まれました。自分の努力や行ないではなく、イエス・キリストを信じる生活に変えられるとき、私たちではなく、ご聖霊が私たちのうちで、また私たちを通して働いてくださいます。クリスチャンが受けるバプテスマとは、古い自分はキリストとともに十字架につけられたことを信じること、そして、今はキリストが自分のうちに生きておられることを信じることです。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。第二コリント5:17

古い自分はまだ生きているではないか、と言わないでください。2千年前に、その古い自分はキリストともにさばかれて、死んでしまったのです。そのことを理解できなくても信じると、今度は内に生きておられるキリストが活躍してくださいます。自分ではなくて、キリストの御霊が私たちのうちで生きてくださるのです。ですから、私たちは恵みの中にいます。もう自分ではなくて、キリストが私たちにできなくなっていることをしてくださいます。キリストのうちに生きることによって、私たちを通して、すばらしい神のみわざが成し遂げられていくのです。このようにして、アポロの弟子たちは聖霊に満たされることができました。

「信じた時聖霊を受けましたか」今私たちはこの問いにどう答えるでしょうか。使途の働き2:23 あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。つまり、確かに私の罪、あなたの罪の為に刺し通されたかた、血を流してくださった方が、復活し、天にのぼられる前に約束なさった助け主、わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。ヨハネ14:16 この約束の聖霊がこられたのです。「この方はあなたと共に住み、内におられる」とあります。その方は私たちを永遠へと導く主です。
2007年6月10日(日)
イザヤ60:17〜61:3

イザヤ書60:19?61:3

太陽がもうあなたの昼の光とはならず、月の輝きもあなたを照らさず、主があなたの永遠の光となり、あなたの神があなたの光栄となる。あなたの太陽はもう沈まず、あなたの月はかげることがない。主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆き悲しむ日が終わるからである。あなたの民はみな正しくなり、とこしえにその地を所有しよう。彼らはわたしの栄光を現す、わたしの植えた枝。わたしの手で造ったもの。最も小さい者も氏族となり、最も弱い者も強国となる。時が来れば、わたし、主が、すみやかにそれをする。

神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者によい知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、全ての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。

今週は一貫して貧しい者が富む者となる、いわゆるどんでん返しのような箇所を学んできました。そうです。私たちはキリストの購いによって0で並べられたような滅びに向かう人生に、「1」を先頭にかれたようなものです。いくら並べても0は0です。しかし先頭に1がおかれたので、全てが生き、大きな価値のあるものへと変えられたのです。以前にも学んだ通り、私たちは誰にも支配されない者です。それは神様が私たちの主であり、養って下さるお方だからです。この世と調子を合わせていくものではないのです。主の調子に合わせていくものです。今までわたしを照らしてきたもの、わたしが頼りとしてきた光はもうもう照らすことはなく、主御自身が私たちの光となり、道を照らして下さるのです。

「起きよ、光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。」イザヤ書61:1 とあります。最も貧しいものも氏族となり、最も弱い者も強国となる。主が私たちの上に輝いて下さるとき、主が私たちに望まれるとき、主の力によって私たちは立ち上がり、高く上ることができます。だから何も恐れる必要はないのです。「主を待ち望むものは新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いてもつかれない。」イザヤ40:31 

私たちはどこに土台をおくものでしょうか。自分の経験でしょうか?素晴らしい霊的体験でしょうか。富でしょうか。または素晴らしい行いでしょうか。貧しい人に施すことでしょうか。いえ、私たちの土台はキリストだけです。主だけが私たちの土台なのです。ここに土台があるのなら、私たちは決して揺るぐことがありません。そして、決して誇ることがありません。主は全てを御支配しておられるお方です。平和も、わざわいも創造するお方です。平和なときだけではなく、わざわいの中にあっても、主は主なのです。全て、主ですと賛美するときに主の栄光が私たちの上に輝き、人の目には貧しく見えても何よりも富むものとされ、弱く愚かなものとして見えても誰よりも強いものとされるのです。悲しみが喜び、灰は飾りに、憂いは賛美に変わるのです。人の目には愚かに映るかもしれません。しかし、私たちは主を主とし、主から受けるものに心をそそぎ、それを喜びとするものです。私たちの全てのわざわいも、罪も全てが十字架により贖われています。ただ聖霊を求め、そして受け取りましょう!

フレーム
2007年6月17日(日)
「父たるものよ」 福井正躬師メッセージ

「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓練によって育てなさい。」エペソ6章4節
 父たるものの何より心得ておかねばならないのは、天に父がおられるといつも心がけることです。
「父たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが、初めからおられる方を知ったからです。」 Iヨハネ2:13 とありますが、子供の父たるものは自分自身が、また、子供であることの自覚の必要です。もっともそれは誰某の子で、今は亡き誰某の長男であると言う系図上のことではありません。それらは私と共に衰え亡びる人間で永遠の父ではありません。万物の初めからあられる方、そして終わりまで生きておられる御方が天におられる真の父である意識のことです

 父が子どもに対して徹底的に寛容の必要があるのは、子供を怒りの子としないためです。子供はいつまでもこどもではなく成長し大人になります。これは父が老人となっても子供たちに侮られない術です。そしてそれは天の父を畏れる信仰の模範です。

 聖書中「父」と呼ばれる人物はアブラハムですが、100歳にしてイサクを授かった祝福の器であります。ところが天の父は、その愛児を全焼の生けにえとしてご自分に献げよと命じられました。この時このご命令に不言実行したのです。少年とはいえイサクは物事の判断のできる成長を果たしておりましたから、父の異常な様子と全焼の生けにえとされる肝心の羊を忘れているのを見て、父は老化のために狂ったか、それにしてもどう父を受け止めればよいのか、更にしばらく進むとイサクは自分が全焼の生けにえとされることが解って来た時、普通なら怒りの声をあげて逃げだすか、反抗するところでしょう。でもイサクは、父に一切をゆだね従いました。これは父が天の父に全身全霊で従い、服従の喜びの模範を常に示していたことによって生まれたことだったのでしょう。

 天の父の試練を忍ぶ姿をもうろくと思ったり愚かと見るなら何の益も得ないで終るでしょう。しかし信じて受け入れ行う者にとっては大きな恵みの獲得となる証拠です。イサクも老人となって、目もかすみ妻と子にあざむかれる状態になった時も、一切を振り切って祝福の祭司の務めを果たしました。

父たちよ。父と呼ばれることは何と光栄ではありませんか。ただしそれは人間的幸福ではなく信仰的、霊的の幸福であります。 そして肉にある立場から、天の父の御業が多少でも伺えることも慰めであります。老いた父たるものも、若き父たるものも、キリスト・イエスに在って目標は一つ、祭司の務め、すなわち、祈りが妨げられないように注意することです。 (Iペテロ3章)

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