| 2007年5月13日(日) |
| 礼拝メッセージ 「主のもの」 エゼキエル書34:7〜16 |
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私たちはイエス様を心にお迎えし、信じるまでは世に捕らわれていたものです。信じてからは、私たちは世の支配下ではなく、神様の中に入れられているものです。パラダイムシフトが起きたのです。つまり土俵が変わったのです。全く同じでいながら、全く違うものになったのです。今までは同じ土俵で戦ったり、論じたり、時には力を合わせてやってきましたが、戦おうにも戦えないのです。 私たちは世の基準で主を知ることはできません。神様の恵みによって、知ることができるのです。世のことは世の知恵によって知ることができます。しかし神様のことは神様の霊によって知ることができるのです。もう私たちは世の牧者の手から解放され、二度とそれに養われることはないのです。神御自身が、私たちを養い、育てて下さるのです。それが神に捕らえられたものの生きる土俵です。これこそが私たちが与えられた最高の相続地、祝福の地です。 |
| 2007年5月20日(日) |
| 礼拝メッセージ 「神の知恵」 第一コリント1:22〜25 |
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ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。第一コリント1:22〜25 キリストの姿をこの世の知者が見るなら、愚かに見えます。人の心を惹きつけるこの世の知恵は計り知れません。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追及します。と記します。しかし、イエスは答えて言われた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。」 マタイ12:39〜40 この世の方法に倣って、策略を練り、伝道方法を研究し、雄弁な伝道者を立てます。しかし神様の方法は、全てただ誠実であり、沈黙であり、信じることです。誰もがこの姿が愚かだと言います。ですから神の救いの唯一の道である十字架の教えは、世の人に愚かの極めとされるのです。神の独り子が十字架に上げられ、罪人の救いの道を開かれた。誰がこんな愚かな教えを信じていくのか。神ご自身がうたれ、ののしられ、唾をかけられ、恥だけをさらす姿で十字架にかかるなど、いったい何のためにそんな出来事を、いったい誰がそんな単純で愚かな出来事を神の教えと信じるのでしょうか。人の求めには十字架の言葉は何一つ答えることはないのです。 自分の弱さ、愚かさに向き合い、その縄目に縛られている者へ与えられた救いの道だからです。しるし、知恵それは人の目に認められるものです。中々賢い人だと認められたいものです。人が満足するものです。しかし神は、愚かな十字架によって、その弱さによって、神の力を顕されました。 神が人間として生まれた。十字架につけられ死ぬ為にこられた。それはあなたが、自分の罪に気づき、その許しを受ける為に起きた出来事。彼は死に勝利して甦られた。それは信じるものが永遠の命を得るためのものだった。今も生きて働かれるこの方は、滅び行くことを知らないで、自分の人生を辿っている一人の魂を求める為に。しるしによらず、知恵によらず、この十字架の言葉の愚かさによって又つまずきとなるべきこの出来事によって知らせておられるのです。 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い キリストの十字架は、愚かに見えますが、この世のもっとも優れた知恵によっても知ることができないほど知恵に富んでいます。また、キリストの十字架は弱々しく見えますが、全世界を支配する力よりも力強いのです。ですから、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いのです。誰の保証も証明も要らない。この方がご自身でご自身をしるしとされました。イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。ヨハネ14:6 |
| 2007年5月27日(日) |
| 「真理の御霊」 使徒の働き19:1〜10 |
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真理の御霊 アポロがコリントにいた間に、パウロは奥地を通ってエペソに来た。そして幾人かの弟子に出会って、「信じたとき、聖霊を受けましたか。」と尋ねると、彼らは、「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした。」と答えた。「では、どんなバプテスマを受けたのですか。」と言うと、「ヨハネのバプテスマです。」と答えた。そこで、パウロは、「ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです。」と言った。これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。 使途の働き19:1〜10 ペンテコステは、クリスマス、イースターと同じように重要で、大きな喜びの訪れです。これはギリシャ語で「50番目」という意味の言葉です。元々、ユダヤ教に過越の祭から50日目に「7週の祭」と呼ぶ、小麦の収穫を祝う祭がありました。そして、紀元70年以後、この日を律法授与の日として大切にしています。その「7週の祭」をギリシャ語に翻訳したのが「ペンテコステ」、つまり7週(=49日)を経過して50日目、という言葉なのです。新共同訳聖書では、「五旬祭」と訳されています(使徒言行録2章1節)。旬は10日という意味ですから五旬は50日です。 この五旬祭、ペンテコステの日に、聖霊(神の御霊、真理の霊とも言われる)が、天から降りました。当時、主イエスの12人の弟子を初め、120名ほどの者が一緒に集まって、主イエスが約束された聖霊が降るのを、熱心に祈りながら待っていたのです。彼らは約束の聖霊に満たされ、神の力を受けて、いっせいに様々な国の言葉で神の福音を語りだしました。その光景に驚いて集まってきた人々に、ペトロが聖書から主イエスについて説き明かしたところ、3000人もの人々がそれを受け入れ、主イエスを信じて洗礼(バプテスマ)を受けました。この3000人の人々は、御言葉の学びと、礼拝をささげること、祈ること、信徒相互の交わりを熱心に行い、そうして史上最初の教会をエルサレムに形成したのです。教会は、その後も聖霊に力を頂いてエルサレムを初めイスラエル全土、そして世界中に福音宣教を展開してきました。極東の日本にも500年前に宣教師が主イエスの福音を伝えました。我が国からも宣教師が多くの国々に派遣されています。私たちの属する日本バプテスト連盟は、第一号としてブラジルに宣教師を送り、次いでインドネシア、タイ、シンガポールに送り出しています。 このように、キリスト教会にとってペンテコステは、聖霊がこの世に降った記念日(聖霊降臨日という)であり、また、教会の誕生日(エルサレム教会創立記念日)になりました。 五旬節に日、彼らに聖霊が臨まれました。自分の努力や行ないではなく、イエス・キリストを信じる生活に変えられるとき、私たちではなく、ご聖霊が私たちのうちで、また私たちを通して働いてくださいます。クリスチャンが受けるバプテスマとは、古い自分はキリストとともに十字架につけられたことを信じること、そして、今はキリストが自分のうちに生きておられることを信じることです。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。第二コリント5:17 古い自分はまだ生きているではないか、と言わないでください。2千年前に、その古い自分はキリストともにさばかれて、死んでしまったのです。そのことを理解できなくても信じると、今度は内に生きておられるキリストが活躍してくださいます。自分ではなくて、キリストの御霊が私たちのうちで生きてくださるのです。ですから、私たちは恵みの中にいます。もう自分ではなくて、キリストが私たちにできなくなっていることをしてくださいます。キリストのうちに生きることによって、私たちを通して、すばらしい神のみわざが成し遂げられていくのです。このようにして、アポロの弟子たちは聖霊に満たされることができました。 「信じた時聖霊を受けましたか」今私たちはこの問いにどう答えるでしょうか。使途の働き2:23 あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。つまり、確かに私の罪、あなたの罪の為に刺し通されたかた、血を流してくださった方が、復活し、天にのぼられる前に約束なさった助け主、わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。ヨハネ14:16 この約束の聖霊がこられたのです。「この方はあなたと共に住み、内におられる」とあります。その方は私たちを永遠へと導く主です。 |
| 2007年6月10日(日) |
| イザヤ60:17〜61:3 |
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イザヤ書60:19?61:3 神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者によい知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、全ての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。 今週は一貫して貧しい者が富む者となる、いわゆるどんでん返しのような箇所を学んできました。そうです。私たちはキリストの購いによって0で並べられたような滅びに向かう人生に、「1」を先頭にかれたようなものです。いくら並べても0は0です。しかし先頭に1がおかれたので、全てが生き、大きな価値のあるものへと変えられたのです。以前にも学んだ通り、私たちは誰にも支配されない者です。それは神様が私たちの主であり、養って下さるお方だからです。この世と調子を合わせていくものではないのです。主の調子に合わせていくものです。今までわたしを照らしてきたもの、わたしが頼りとしてきた光はもうもう照らすことはなく、主御自身が私たちの光となり、道を照らして下さるのです。 「起きよ、光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。」イザヤ書61:1 とあります。最も貧しいものも氏族となり、最も弱い者も強国となる。主が私たちの上に輝いて下さるとき、主が私たちに望まれるとき、主の力によって私たちは立ち上がり、高く上ることができます。だから何も恐れる必要はないのです。「主を待ち望むものは新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いてもつかれない。」イザヤ40:31 私たちはどこに土台をおくものでしょうか。自分の経験でしょうか?素晴らしい霊的体験でしょうか。富でしょうか。または素晴らしい行いでしょうか。貧しい人に施すことでしょうか。いえ、私たちの土台はキリストだけです。主だけが私たちの土台なのです。ここに土台があるのなら、私たちは決して揺るぐことがありません。そして、決して誇ることがありません。主は全てを御支配しておられるお方です。平和も、わざわいも創造するお方です。平和なときだけではなく、わざわいの中にあっても、主は主なのです。全て、主ですと賛美するときに主の栄光が私たちの上に輝き、人の目には貧しく見えても何よりも富むものとされ、弱く愚かなものとして見えても誰よりも強いものとされるのです。悲しみが喜び、灰は飾りに、憂いは賛美に変わるのです。人の目には愚かに映るかもしれません。しかし、私たちは主を主とし、主から受けるものに心をそそぎ、それを喜びとするものです。私たちの全てのわざわいも、罪も全てが十字架により贖われています。ただ聖霊を求め、そして受け取りましょう! |
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| 2007年6月17日(日) |
| 「父たるものよ」 福井正躬師メッセージ |
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「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓練によって育てなさい。」エペソ6章4節 父たちよ。父と呼ばれることは何と光栄ではありませんか。ただしそれは人間的幸福ではなく信仰的、霊的の幸福であります。 そして肉にある立場から、天の父の御業が多少でも伺えることも慰めであります。老いた父たるものも、若き父たるものも、キリスト・イエスに在って目標は一つ、祭司の務め、すなわち、祈りが妨げられないように注意することです。 (Iペテロ3章) |